柄の縁金


 刀を抜いた時、柄(握り手)の刃先側に「縁金(ふちがね)」、反対側に「縁頭(ふちがしら)」という部品が付いています。今回は、縁金についてお話します。平日ですが岡崎三郎信康公を偲び、二俣城址と清瀧寺の信康廟を訪ねてみました。二俣城跡は地元で城山と呼ばれ、幼いころの遊び場でもありました。この時期、城跡も廟も山野草のシャガが日陰に群生しています。因みに、花言葉は「私を信じて」です。自然繁殖なのか、誰かが植えたのか。信康の言葉のようで・・・・。歴史に思いを馳せると、武田信玄と徳川家康の所領が接する場でもある当地は、度重なる合戦の場でもありました。私は、二俣城跡の尾根続きにある皆原団地(みなばらだんち)に住んでいました。ここは、二俣城が武田方に落ちた後、徳川方が城を取り戻す為に蜷原砦(になはらとりで)を築いた場所です。地名が蜷原から皆原に変わっています。聞くところによると、この場所で「皆、腹を切って亡くなった。」そうです。幼心に何となく気味の良くない地名だと思ったものです。加えて、造成中のその場所で、写真の「縁金」を見つけたのです。それも脇差か小刀の部品の様で小振りなのです。どの時代の物か分かりませんが、武士かその家族が腰か懐に携えていたと考えると、その人の運命に思いを巡らせてしまいます。帯刀を許された時代があったのだと、思いを馳せつつ緊張感を感じた覚えがあります。

縁金(ふちがね) 

思いも寄らぬ


 我が子の命を救うため巨額の募金を集め、臓器移植が可能な外国に頼る両親の心根は、分からなくもありませんがなんとなく腑に落ちないなと感じていました。何故、国内で対応出来ないのだろう?公的な支援組織はないのだろうか?どうしてあんなにお金が必要なのだろう?日本の医療は充実しているはずなのに・・・。当初の疑問は、この程度のものでした。その後、もう少し深く考察してみると、大きな問題を孕んでいることが分かって来たのです。「募金をした皆さんは、病気の子供が助かる事だけを願って出金されています。」これは、正しい事だと思います。他人を救おうとする気持ちは、誰にでも湧いてきます。「求める人に提供する人がいて、それが国外にあった。」これも、大きな問題ではないでしょう。「大金が掛かる。」まあ、保険も利かないし仕方がないでしょう。では、何が私の心に引っ掛かっているのでしょうか?まず、臓器移植は順番待ちの状態で、どの国に行っても同じ環境にあると思われます。大金を嵩に順番待ちに割り込み、次に手術を受けるはずのその国の人に悪影響を与えていないのだろうか?あわや絶命など、以ての外です。募金をした人たちは、自分たちの行為が何を引き起こしているのか知る由もないでしょう。ですから、良かっただけで済ませてはいけない行為とも言えるのです。

著莪(シャガ)

ハラスメントが嫌がらせ


 何時のころからか、ハラスメントなんて言葉が流行りはじめ、力を誇示する者を諫める恰好の武器となって行く。ところが、時代に連れ力の強弱が曖昧になり、上も下もなく相互に攻撃しあう煩わしい言葉に変化して行く。ハラスメントだと指摘するだけで、その事自体が嫌がらせになってしまう。ネットの誹謗中傷に近い泥沼の様相を呈し、社会の潤いをなくし萎縮させてしまっているようだ。嫌がらせの応酬を招いているこの言葉を、そろそろ卒業しても良いのではないだろうか。誰が見ても嫌がらせだと判断出来れば良いが、個人的見解が万人の意見になってはいけないように思う。あくまでも、個人に対する嫌がらせであり社会全体の問題ではない事に気付かないといけない。現代は、ハラスメントという言葉に敏感に成り過ぎ、発言や行動に見えない制約を生んでしまっているのではないか。敢えて生き辛くなる言葉を使い続ける事に、終止符を打つ手はないのだろうか。外来語に右往左往させられるのは、どこかの国の陰謀か?他の国の言葉を受け入れるには、十分な注意が必要と言う事か・・・。他にも、グローバル化やプライバシー保護など、日本文化を蝕みつつある単語の使用法(意味)を再考する必要はないのだろうか?

あんず

匠と名乗らん


 道具を使うけれど、手作業で人を唸らせる程の物を創り出す人を”匠(たくみ)”と呼ぶと思っていた。もちろん、これは他人からの敬称だと捉えての話だ。元々は、特定の職人(大工)をそう呼んでいた様だが、自ら”匠”と名乗って良いものか?「私は、”匠”だ。」何か少し、おかしいような気がする。有名な和菓子店が、”菓匠”を店名に被せている。これは、手に技術を持った選りすぐりの職人が創った菓子しか販売致しませんと言う事でしょう。しかし、創り出したものを評価するのは、お客様のような気がしますが。多分、自らの自尊心から名乗られているので何とも言えませんが、私たちの技術は他に引けを取らないと、自らを鼓舞しているのでしょうか?他人から褒められたとしても、自ら同じ言葉を発してしまえば、その意味は大きく変わってしまうような気がする。蕎麦屋の名前が”匠”。蕎麦粉100%で腰のある極細麵。確かに、”匠”の手による作品だ。極上の旨い蕎麦になっている。でも、店名にまでした”匠”は、自尊心を裏返した覚悟なのでしょうね。やはり、この言葉は他人からの拍手であってほしい。これは全て私の戯言だが、いくら他人より秀出ていても、謙遜の意識を忘れない一人の日本人で居たい・・・

アーモンド

表現に困るとな


 世に起こる粗方の問題(争い)は、自らの意思を相手に伝える表現力(文章力)不足にあるのではないでしょうか。更に、聞き手側の理解力不足も、問題を大きくしています。そこで、表現力を豊かにするには、感性を磨く意味で先人の文章に沢山触れてみるのも良いでしょう。多様な表現は、語彙力を必要とします。多くの単語(意味)を覚えることで、微妙な表現の違いも、正確に伝えられる(理解できる)ようになります。文章の行間も、読めるようになるでしょう。日本語は短い文章の中に、多くの意味(景色)を閉じ込めるのに向いている言語です。母国語での理解力を深めることが、日本文化を守ることでもあります。子供たちへの日本語教育は、現場で最優先されて然るべきでしょう。日本語も儘ならない幼少期に外国語を学ばせるのはいかがなものかと思います。国の教育係は、日本語を守る意思などないのでしょう。国際化を良しとしても、日本語の劣化に気付いていないのでしょうか。この国の学者と(か)呼ばれる人達の表現力や文章力には、目を覆いたくなるところがあります。学問の成長は、国語力(言語の習熟度)に比例します。意思の疎通が取れず、誤解の充満した争いだらけの世の中など、誰が望むでしょうか? 言語(文字)以外に、正確に自分の意思を伝える術はないものか?

マックスマム

職の本懐


 政治を生業とする人達ちは、自ら手を上げ国民や関係者の支持を得ることでその立場を正当化します。他人への奉仕が基盤にある職業には、自薦や利害関係のある選出はそぐわないような気がします。持ち合わせていなければならない資質(適性)が欠けているため当たり前からかけ離れた、考えられない不祥事が発生するのでしょう。政治家、医者、裁判官、検察官、弁護士など、自らその職に就こうとする欲求が、仕事に必要な資質形成(適性)の邪魔をしているように見えて仕方がありません。実現は出来ませんが、利害関係のない他薦(乞われて出る)が解決の鍵を握っていると思っています。極端に言えば、奉仕は”職業”であってはいけないのかもしれません。他人への奉仕を、金銭で受け取ることに違和感を感じませんか?増してや、高額報酬など以ての外です。これから、社会の規則を大きく変える事は難しいのかもしれません。本来、人の資質は職業が求めるものでしょう。人が、職業を求めてはいけないのでしょう。子供たちの資質を正確に捉え、育て、その人に合った適性な職業に導くのが大人の役割ではないかと思っています。職の本懐は、人の求めに応じないことか・・・・

ガザニア

岡崎信康の自刃

 
 岡崎城から退去させられ、碧南の大浜、続いて浜名湖畔の堀江城を経て二俣城に連行され、その地で家康の命により自害させられた若者が居ます。父である家康が、嫡男の信康を見限ったのです。この事件の直前に、家康は正妻である築山殿(瀬名姫)を、武田との内通を理由に佐鳴湖畔で殺害しています。こちらも、大事件です。それ相応の理由が有るのでしょうが、愛妻と嫡男を短期間に殺害してしまうという行為に異常性を感じませんか?この話を取り上げた理由は、最近多くなっている若年層の凶悪犯罪に、親がどう拘わっているのか気になったからです。加えて、二俣には私なりの思い入れがあります(暫しの故郷)。さて、子供は幼児期に触れ合った大人の影響を大きく受けて育ちます。親の教育が子供の将来を決めているのかもしれません。人を傷付けてしまった子供の親には、同じ程度の罪があるようにも思います。育てる子供が、犯罪者に成らないよう教育する義務が親にはあるのではないでしょうか。それなりの覚悟を持って、子の親になる必要があるのでしょう。後に家康は、「甘やかして長男を育ててしまった。」と子育てについて反省しています。三河、遠江と駿府を手中にしつつあった家康も、命を賭して忠誠を誓った家臣団に報いるため、苦渋の判断を下したのだと思います。息子と妻の行動が、自分にも家臣団にも脅威となって居たのでしょう。悲しい歴史ですが、愛している身内を切り捨て統治者の責務を全うしたと、納得してあげても良いのではないでしょうか?

浜松城

--  幕 間  --

「奇妙な管楽器」
 若かりし頃、管楽器のホルンを吹いていた時期がありました。随分と昔なので、何故吹奏楽部に入ったのか覚えがありません。短期間でしたが、貴重な経験だったと思っています。名前の通り、ホルンと言えばプッププーンと倍音しか出ない角笛の印象ですが、現在の楽器としてのホルンは複雑でいくつもの長い管を丸めた重厚感のある姿になっています。入部時には、ヤマハのメロフォンを与えられ練習に明け暮れました。その後、少し慣れると新品のフレンチホルンで練習させて貰えるようになったのです。楽器が変わることで、演奏する手が右から左へと移ったのですが、何とその時鈍感な私は気付きませんでした。あり得ませんよね。大人になってから、左手で演奏する管楽器はホルンのみだと気付いたのです。因みに、メロフォンはホルンではありません。トランペットに近い楽器だそうです。使い手の疑問を調べてみると、明らかな理由が分かりました。左手で持ち、ベルが後ろを向いているのは、馬上で後ろの部隊に命令する為の軍隊の道具だったからです。楽器になってから、演奏し易いように右に変えなかったのは、ベルの中の右手で音階を操作していたからです。ナチュラルホルンは右手で演奏していたのですね(ゲシュトップ奏法)。その習慣が、そのまま残ったと言えるのでしょう。調べてみると納得ですが、実に奇妙な楽器だと思います。好きですが・・・・

ゼラニウム

自然の営みなぞ


 15年前に買ったポンコツパソコンのHDDをSSDに交換する作業に、三日を要してしまいました。只でクローンを作成するのですから、時間が掛かっても仕方がありません。ネットで入手した三種類目のソフトがしっくり来て3時間程で作業を終えると、亀の様なパソコンが見違える処理能力を手に入れたのです。良かった、良かった。さて、今回はクローンのお話です。スコットランドでクローン羊のドリーが生まれ(1997年)たという報道に、人のクローンも近い内かと何となく不安になった覚えがあります。遺伝子が全く同一の人間が複数面前に現れる事に、違和感を感じない人は居ないでしょう。そんなことを思いながら自分の周りを見回して見ると、ある物に取り囲まれて居たのです。街路樹や果物、野菜、綺麗な花、家畜、希少動物、移植用臓器、医薬品など多くがクローンで増やされ、自然の営みからほど遠い環境に愕然とさせられます。そうなのです。人間は、人工的なクローンに取り囲まれてしまったのです。やはり、動植物が自然の営み無しに、それも遺伝子が同じ個体を造ってしまう所に問題が有るように思います。科学の発展や豊かな社会を希求するとは言え、自然を歪めてしまっても良いのでしょうか?大きな問題とする以前に、進んでしまっている人の未来に一抹の不安を感じています。

金盞花(カレンデュラ)

和語のすすめ


 母国語を大切にする事が、当たり前だと考えて来ました。目の前に現れる外来語を、敢えて日本語に置き換えて表現しようと努力して来ました。お憂げさですが、外国語交じりの文章に悲哀さえ感じていたのです。そして今回、日本語の音読みと訓読みについて考察して行くと、先人達の母国語に対する姿勢が見えて来ました。中国から漢字を借用した時点で、文化の混雑というよりは、粗方中国化したとしても過言ではないでしょう。それは、漢語を訓読みにして取り込む一方、重箱(じゅうばこ)読みや湯桶(ゆとう)読みなど、音訓の混用が習慣化して行きます。漢語と和語が混沌と一体化し、日本語を形成していると言って良いでしょう。最早、私たちの使っている日本語は、外来語を十分に内包して居るのでしょう。現在のカタカナ交じりの母国語を、卑下する理由など何処にもないのです。成るべく日本語で表現しようとしている私の行為は、徒労だったのでしょうか?取り込んでしまえば、それは日本語だとも言えますが、しっくり来ず何かもの悲しい気がするのです。容赦なく押し寄せる外国の言語を、排除することなど出来るはずもありません。それでも、美しい日本語を使い続けたいという私の願望は、無駄な絵空事でしかないのでしょうか?寧ろ、外国語を取り込んだから美しい和語に・・・

イベリス

プロフィール

秋(aki)

Author:秋(aki)
秋(aki)と、申します。静岡県出身です。年齢、性別は、ブログからご想像ください。



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