ブログの写真


 今まで書き記していませんでしたが、記事の後に添付している写真は、全て私の撮ったものです。特に、花が好きと言うことはありませんが、撮り貯めしたら溜まっていました。奇麗ですよね。切り取りたいと思った被写体にカメラを向けています。シャッターを押す瞬間は、上下左右に動きながらフレーム内の画像と自分の心地良い意識が同期した時です。美しいだけの感情では無いように思います。一面、写真の公開は、自分の内面を晒すようで非常に恥ずかしく感じます。切り取った被写体を介して、自分の本心が見抜かれるようで不安も感じます。一方、写真を観て私と同じような感情に浸って頂きたいとも思います。やはり、写真は単なる画像ですが、撮った人自身でもあります。多くの方のブログにある写真を拝見しますと、私の心の琴線に触れるものばかりです。(もちろん、本人が撮りましたと発表されている写真です。)私なりにですが、その方の為人が分かるような気がします。今後も、ブログには自分を表現する写真を乗せ続けるつもりです。プロではありませんので、上達はしないと思いますが、悪しからず。少し気にして観てくだされば 幸いです。

フェイジョア



蚊帳の外


 あらゆる場所で、先輩から後輩に引き継がれるはずの知恵が伝承されていないようです。嘗ては考えられなかった「陳腐な事故」が、明らかに目立つようになっています。普段の生活の中で気にする必要もなかった「誰かが守ってくれている」という”安心感”が瓦解して行くようです。他人が見守ってくれてこそ、人間社会が成り立つのでしょう。他人の事を気にしない集団は、成り立つのでしょうか?影で優しく他人を見守る事の重要性を、全員で見直す時期に来ているのでしょうか?そうは言っても、利己主義や功利主義的個人主義が、社会に蔓延して来ています。皆、気付いているのに成るようにしか成らないと諦めているのでしょう。何もしない。何も出来ない。自分の事が、最優先。予想を裏切って、変化しながら待ち望んだ新しい世界が訪れるのでしょうか?そうあって欲しいものです。心配性の私は、重箱の隅を突きながら不安の中に身を置いています。孤独を愛し他人を愛す事は、不可能なのでしょう。

エキウム

人の悪業とな


 世に起きている不祥事(醜聞)は、人の業により自ずと生まれた悪なのだろう。増えはしても減ることはない。人の社会に必ず生まれる悪なのかもしれない。人は特権や権力を手に入れることで、必然的に横暴で身勝手に振る舞い始める。誰も疑問すら感じず、さも当然かのように。電波の公共性(公正性)が広告主との利害関係により歪められ、他社との関係で、自らの利益を減らさないために、罪を目撃しても「観て見ぬ振り」をする。性加害は、彼らにとって与り知らぬ事なのだ。更に、制作会社との間で悪しき主従関係も醸成している。加えて、罪の矛先を替える情報操作もお手の物だ。現在の社会構造自体に問題があるのだろう。以前にブログの「笑いの呪文」で書いたが、”揶揄の笑い”を広めたのも彼らだ。”虐め”の元凶とも言えるのではないだろうか?己の利益を得るために、公共性を利用し、悪をばら撒いたと言えないだろうか?彼らに自覚があるのだろうか?あるとすれば、「地獄に落ちてしまえ!」とまで考えてしまうのは、私だけだろうか・・・。とどのつまり、”彼らは危険だ”と知ったうえでお付き合いしていく余裕が必要だと言うことでしょう。
※今回は、少し怒っています。   秋

チューリップ


落し前を


 「落し前」とは物騒な言葉ですが、問題を最終決着させることで、ごく当たり前の言葉だと思います。「後始末」と言い換えても良いのですが、これからのお話には「落し前」が真意を言い当てているようです。まずは先週ですが、「大怪獣のあとしまつ」という映画を観ました。怪獣は一般的に悪者で、この世から始末してしまう必要があります。この映画では、怪獣が始末された後の「後始末」を描いています。退治されましたという問題の結末ではなく、その後の「後始末」を話題にしているところが面白いと感じたのです。この世で発生する大方の問題は、解決した時点で決着してしまい、将来への多少の対策は出るものの、「後始末」を忘れているように思います。つまり、怪獣が絶命し人間に害がなくなれば解決です。その後に残る巨大怪獣の遺体処分は、興味が湧かないのです。以前お話しした冤罪でも、被告人が無罪を勝ち取れば解決です。真犯人は、一人も出てきません。人々の興味が其方に向かないのです。政治家の説明責任では、説明は義務であって、罪を償うことが責任なのだと思います。説明責任と言い換えることで、問題を集結させようとしているのでしょうか。人々は、問題の後始末が気にならず興味がないようです。それを利用している悪賢い人たちもいます。期待薄ですが、しっかりと「落し前」がつけられる世の中の実現を待ち望んでいます。

ビオラ

凝り性の対処


 最近、スマホの無料ゲームに凝っています。今更です。臍が曲がっているので、ブームが起きても時期を外します。時間を潰すつもりで始めたのですが、時間に潰されています。取り付かれちゃったというところでしょうか。もともと、異常な凝り性なので諦めざるを得ません。でも、面白いです。コツコツですが、小銭稼ぎにもなります。塵も積もれば何とやらです。ゲーム以外にクイズなどもあり、稼げるものは、全て手を出しています。気付いてみれば、大変な事になっているのです。仕事そっちのけとまでは言いませんが、それに近い状況に我ながら唖然としている状況です。皆さんも、こんなことありませんか? 但し、昔から賭け事による自爆はありません。競輪、競馬、オートにボートなど、公営ギャンブルには見向きもせず、マージャン、パチンコなども学生時分にちょっと齧っただけで、身上(しんしょう)を潰してしまうことはありませんでした。つまり、もともと賭け事が大好きなので、嵌ったら大変な事になることを自ら知っているからです。強く念じて自制しています。基本は、周りの他人に迷惑が掛からなければいいのかなぁ。公営のギャンブル場がどっかに出来るようです。治安の悪化と依存症急増の問題を考えると、税収が上がると喜んでいる人達に天罰でも下らないかと思ってしまうのは、私だけでしょうか? 他人にも自分にもあまり良いことがありません。皆さんもほどほどに嵌りましょう。

さざんか


正直者の嘘


 私は、どちらかというと「正直者」だと思います。ばか正直と正直ばか(馬鹿)の違いは、明確に分かります。状況をしっかりと掴んだうえで、思い通りに行動しているから、全く裏はないのだろうと思えるのが、根っからの正直者。信用でしょうか。一方、結果や影響も考えずに思ったとおりを行動に出してしまい、常に顰蹙を買っているのが本当の馬鹿者。しかし、正直者でも、噓を吐くことはあります。多分、正直者の嘘は、決して嘘だとばれない「誠」なのでしょう。嘘の上手な使い方は、本当の事よりも本当らしく、自らの信用や相手を傷つけないようにするのが決まりでしょう。絶対に、嘘でしたと言ってはいけないのです。ところが、嘘だとバレているのに本当だと言い続ける輩が、世の中には幾ばくか存在しています。こういう人たちを私たちの代表として選んでいるのは誰でしょう。気が知れません。小さい頃から嘘ばかり吐き、周りがそれを補って育った子供は、自分に都合の良い嘘でも、本当のことになってしまうので、大人になっても虚言癖が治らず、世の中を混乱に貶めています。誰の事か、分かりますよね。多分、世の中には「良い噓」と「悪い嘘」があり、嘘の使い方を間違えると一大事が起こってしまうと言うことでしょう。物事を良い方向に転がすために、上手にバレない嘘が吐けるよう努力して行こうと思っています。でも、正直が一番ですが・・・・・

ネメシア


守ることって?


 唐突ですが、「愛情」という言葉を、相手を「守ること」に置き換えてみます。もちろん、「守ること」ですから、他人を傷つけるなんて論外です。反面、自分を「守ること」は意味が違うと思います。但し、他人を「守ること」のためにそうするのであれば、同じ意味になるでしょう。一方、自分だけを「守ること」は、(利己的)個人主義を想起します。世の中は、自己愛に溢れ、伝染病のように増殖し蔓延して来ています。言い方は悪いですが、西の文化に徐々に毒されているのでしょう。他人を一方的に「守ること」が、「愛情」なのでしょうか?キリスト教で言うように、見返りの愛情を求めてはいけないのでしょうか?私は、求めても良いのではないかと思っています。互いを「守ること」で相愛が生まれます。つまり、この言葉の置き換えを実現するだけで、世の中が今よりずっと平安になる気がします。守ろうとする気持ち、即ち他人を「守ること」自体が愛情なのではないでしょうか。他愛のないことをと言われても、私は最愛の相手を「守ること」で愛情を表現して行こうと決めています。他人を「守ること」が、自分を「守ること」だと全ての人が納得し、安心して生きられる世になりますように・・・

クリスマス

「うまい!」の極め手

 
 世の中には、美味しい食べ物が沢山あります。反って、不味い物を見つけることのほうが難しいかもしれません。美味しいと感じるのは、主観的であって他人も同じではありませんし、味覚への反応(鈍感、敏感)も個人差があります。ですからこの話題は、私個人の「うまい!」を基準にお話いたします。まずは、繰り返し食べたくなるもの。毎日でも。多分、私にとってすごく美味しいんだと思います。次に、定期的に食べたくなるもの。何となく習慣性に嵌っているのでしょう。実は、本当に美味しいものは、食べたかどうかも忘れるぐらい時間が経ったころ、急に思い出して直ちに食べたくなるのが、「うまい!」の極め手だと、最近気付いたのです。特に高級なものでもなく、有触れた食べ物なのに、思い出したが最後、取り寄せても食べたいのです。加えて、好きな人が横に居れば、更に美味しくなること必至。では、ご紹介いたしますが、私が美味しいのであって、他人は分かりません。悪しからず。四川飯店のマーボ豆腐、ごま担々麺。燕三条の背油醤油拉麺(最近、取寄せました)。京都の天下一品拉麺。東海地方(特に岐阜)の五つ玉みたらし団子。帯広スパイスガーデンのスリランカカレー(ものすごく辛い)。帯広丸福のひやかしと揚げ玉ご飯。同じく帯広みすゞのみすゞ拉麺。九州の豚骨拉麺全部。大井町龍の刀削麺。山形のげそ天蕎麦(げそ天が食べたい!)。新潟の笹団子。静岡の桜エビかき揚げ。 本日は以上です。

ルシファー(チューリップ)

酔払い星


 時々、星を静かに眺めることがあります。以前書いた、皆原団地に住んでいた(小学生)頃の話です。漆黒の空、星と星の間を蛇行しながらゆっくりと移動する”星”らしきものが視界に入ります。人工衛星か飛行機か?いやっ!点滅もないし、動きも違う。暫く、身動きもせず眺めていたのですが、現実にないものを見た時の反応でしょうか? 5分もすると、私は踵を返しその場を離れてしまいます。見届けなければいけなかったのでしょうが、その”星”がその後どうなったかは、定かではありません。多分、確認出来ない飛行物体だったのでしょう。随分と前のどうでもよい出来事なのに、鮮明な記憶として脳裏に刻まれています。現実なのに自分を納得させられないことに遭遇すると、ずっと心に引っ掛かるものなのでしょう。でも、こんな矮小な出来事に悩まされるとは・・・ 本当は、記憶に残っている取るに足らない出来事が、生きて行く上で至極大切なのかもしれません。 その後、二度と私の前に酩酊”星”は現れていません。

カルセオラリア(巾着草)

急な病


 今年に入り、眼の調子が急に悪くなり、3カ月程で書かれた文字が殆ど判読出来なくなりました。親しい人の顔も判別出来ません。失明するかと覚悟を決めていましたが、両眼手術の甲斐あって生活に支障のない程度まで回復いたしました。この経験から、眼から入る情報が減ることで、判断力が低下し、意欲が減退することに気付かされました。失ってから分かるありがたさなのでしょう。ああっ、回復して良かった!眼科の先生によると、裸眼で両眼とも1.2まで回復するのは稀のようです。更に、他の合併症も見付からず、ほっとしているところです。感覚機関(視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚など)から脳に伝わる情報が少しでも欠けるたり減少したりすると、体や意識の均衡が崩れてしまうんですね。人間は脆いです。取り敢えず、ブログを続けることが出来るので嬉しいです。お気に入りの写真も撮れますし、運転して遠出も出来ます。今までの日常が続けられることに、大いに感謝しないといけません。特別な出来事など要りません。何も無い日常が、幸福そのものです。

聖獣「バロン」(バリ島)

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秋(aki)

Author:秋(aki)
秋(aki)と、申します。静岡県出身の・・多分・・人間です。



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